報酬と楽しさの追求
今日は福井から帰ってきて、そのまま会社に行ってチラシを作ったり、テキストを作って、明日は岡山そして長野、群馬、東京へと一週間が流れていきます。
昔、読んだ本にチンパンジーの実験というものがあった。
チンパンジーに最初、パズルを与えると一生懸命パズルに熱中している。
次に、パズルをやった時には、餌を与えるようにした。すると餌が欲しい時だけパズルをするようになった。そして、最後に報酬を与えることを止めたら、もうパズルに興味を示さなくなり、パズルをすることはなくなった。という話である。
当初は、餌が貰えなくても、パズルを楽しかったからやっていたのに、餌などの報酬とパズルを結び付けてしまったらパズルの楽しさが薄れ、餌という報酬が目的になってしまったのである。
この様な話は、オリンピックに出る様な超一流のスポーツ選手でも、金メダルというものに目的が変わった瞬間にスポーツ=楽しいという概念がなくなり、大好きだったスポーツから離れたくなるという事例もよくあることだ。
仕事は、最初、覚えることは沢山ある。そこに楽しさを見出し、向上を実感していくことで、また更に楽しくなっていく。
確かにお金という報酬は大切なものであることに間違いはないが、お金の報酬がなければ何もやりたくないというのも大切なものを見落としてしまっている感じもする。
自分が自分をずっと見ているからだ。
「手を抜いた方が楽だ」「サボれるならサボろう」というのは、誰でも思うことだけど、そこに心の報酬はあるのだろうか?
僕は、『たとえ地球が明日滅びるとも、君は今日リンゴの木を植える』と東欧の詩人ゲオルグの詩の一節を聞いたとき、明日、死んだら意味ないじゃんと、若い頃、思っていたのだが、もし無駄だとしても未来に繋がる何か??の為に、今を精一杯生きようとする意志みたいなものに共感したり、感動したりする。
年をとった証拠だろうか・・・