褒められたい存在
春の選抜高校野球も始まった。
この時期は、まだリクルートスーツを着た就職活動で動いている人が目立つ。
昨日も群馬から戻ってくる新幹線の中で、隣を見ればスーツに着せられた若い男性が本を必死に読んでいたり、本日も昼の食事で隣を見ればOB訪問を行っている若い女性が先輩社員から話を聞いていた。
そういう姿を見ていると、全く関係なくても応援したくなってくる。
よくプロ野球には、さほど興味がなくても、高校野球を必死で応援している人達がいるが、僕もその一人である。何故なら、高校生達が人を楽しませる為にあれこれ考えてプレーをしている訳でなく、ただ純粋で無心に一球にかける思いが見ている人の心を動かすのだと思う。
老婆心ながら、彼らに助言できるとすれば「褒められたい人を早く見つけて下さい」と
人は誰でも自分という存在を認められたいという想いがあるもの。
それは、決して誰でも良いから大勢に褒められるというよりも、特定の人に承認されたいと思う気持ちが大切になる。
就職するまでは、それが母親や父親、それとも恋人なのか、友達なのかというとこから始まり、時間が流れるにつれ、会社の上司や従業員になったり、お客様であったり、ライバルであったりと、その人によって変わってくるものだと思うが、それがあるのとないのとでは原動力が変わってくるものだからだ。
そこには駆け引きなんてない。
出世も何もない。
ただ、がむしゃらに頑張っている姿を見られようと見られなくとも、「よく頑張った」と
一番思って頂きたい存在。それがある限り、前に進めるからである。
皆さんは、誰に褒められたくて、そして何を褒められたくて日々、働いているのだろう?
時には、そういう事も自分に問いかけてみたい。
先代や親の様に、亡くなってしまっており、それが、例え、永遠に叶わない存在だったとしても。